廃村を告げる活字に桃の皮ふれればにじみゆくばかり 来て
難しいcFQ2f7LRuLYP.icon
ひとつひとつ見ていこう
廃村を告げる活字
「廃村」と書かれた看板(に類するもの)があるか?cFQ2f7LRuLYP.icon 故郷が廃村になるのが決まった?
あとの「にじみゆくばかり」に込められている感慨は、見知らぬ村の「廃村」には込められないと思うcFQ2f7LRuLYP.icon
+1nishio.icon
逆で、廃村となる村は、どこかの知らない村だと思う久住哲.icon
知らない村である必然性はないけれど
新聞にたまたま載っていた廃村の記事といった感じでの、廃村との出会いだと
廃村という概念自体が持つ悲しさや愛しさを使っているのかなと予想
下のmaichan.iconさんの読みを見たあとだと、cFQ2f7LRuLYP.iconの読みは故郷の廃村を知らせる紙に桃の皮をくっつけているので、なんか変な動作になっているcFQ2f7LRuLYP.icon
そんな大事な新聞紙・手紙に桃の皮をくっつけるのは変
故郷ではなく、どこか別の「廃村」と考えるのが良いか
「活字」になにかよそよそしさがあるcFQ2f7LRuLYP.icon 新聞や手紙かと思う久住哲.iconnishio.icon
果物の皮を剥くときには、新聞紙やチラシを敷いて皮を受けるのに使うことがあるので、新聞紙の可能性は高い なるほど、活字もそれに合いますねcFQ2f7LRuLYP.icon
桃の皮
果実の場合は薄くて、皮を剥いたすぐ後は瑞々しく、香りが漂う
ここでは桃の木の皮では無かろう
その皮が「廃村」の二次の活字にふれる
廃村という死に、桃の生がにじんでうつるcFQ2f7LRuLYP.icon
仙人が食べるイメージ、桃
ばかり
短歌を作ろうとウンウンした経験がある身からすれば、ここで「ばかり」という語をチョイスできるのスゲー! となる久住哲.iconcFQ2f7LRuLYP.icon
切なさがあるのかな久住哲.icon
何らかの悲しみがにじんで止まらない感じがあるcFQ2f7LRuLYP.icon
涙の流れるばかり、のばかり
「廃村」だけでも「悲しい、喪失感」なのに、その活字すらもどんどんにじんで失われていく「悲しい、喪失感」って解釈したnishio.icon
来て
最後の「来て」の前に空白がある
2つ意味の分岐がある、と初見では読んだcFQ2f7LRuLYP.icon
自分が廃村に「来て」見ている
誰かに「来て」と言う
久住哲.iconさんの新聞紙の話を聞いてこちらもcFQ2f7LRuLYP.icon
自分に新聞が「来て」見ている
僕は主人公が別の人に呼びかけていると解釈したnishio.icon
「悲しさ、喪失感」が極まったので、家人を呼んで、そばに来て欲しかった、的な感じ
ちょっと複雑な「来て」に思える、直感だけどcFQ2f7LRuLYP.icon
この「来て」2語でおしまいにできるんだ……、チョイスどうなってんだ、スゲーと思ったcFQ2f7LRuLYP.icon
この「たった2文字でダイナミックに情景を変えること」がすごいなぁ、その発想はなかったなぁ、と感じているnishio.icon
最後の「来て」が主役だと思う久住哲.icon
すごい構成だcFQ2f7LRuLYP.icon
「来て」と廃村は、実際上は無関係だと思う久住哲.icon
感情的な関係がある
廃村というものの悲しさが「来て」という切実な叫びを呼び寄せた感じ
訃報を聞いてその人の死を知った、という心に近い感慨かと思ったcFQ2f7LRuLYP.icon
伝聞でしかその死を知らない
桃を切っていると皮が落ち、「廃村」の活字に汁が滲む
薄い紙の、廃村を伝える活字たちに、今ここで切られた桃の皮(いわば切り捨てられたものだ)が寄り添い、水分を分けあう
廃村と桃の皮という切り捨てられたもの
新聞も読まれたあとは
これは涙や悲しみの通交に思うcFQ2f7LRuLYP.icon
にじみゆくばかり、重い
※来ての解釈が未達成cFQ2f7LRuLYP.icon
悲しみに耐えられずに口から漏れた言葉のようにも感じられる
「誰か来て」の来て?
maichan.icon
新聞紙を敷いて桃の皮をむいている
桃の皮が落ちたところの字がにじんでいる
どこかの村が廃村になるという新聞記事、「最後にぜひ遊びに来てくださいね!」「誰も来てくれなかった」とかそんな記事だったのかもしれないけど、桃の皮(桃の汁)でにじんでしまって、「来て」の二文字が読めるだけ
なるほど、どこかの村でも意味が通るcFQ2f7LRuLYP.icon
故郷かもしれないし、かつて訪れたことのある村かもしれないし、知らない村かもしれないmaichan.icon
読み手の「廃村」経験がこれに想像力を足していそうcFQ2f7LRuLYP.icon
この解釈すきkumatako.icon久住哲.icon
「来て」も活字の一部だという読みは「その可能性もあったか!」と驚いた久住哲.icon
廃村、(村の)命の終わり。桃、みずみずしい、生命の象徴
相対するものを一つの歌に置くことで、それぞれの存在をより際立たせている
inajob.icon
すごい、みなさんが解釈しているのを見ると自分でも考えてみようかな、という気になる
なにもないと取っ掛かりなさすぎて辛い
新聞紙で桃を包んで保存している
桃が熟れてきて新聞紙にシミができている
そのシミの箇所には「廃村」の文字
主体無き何かが「来て」と言っているかのようだ
sta.icon
廃村を告げる活字に桃の皮ふれればにじみゆくばかり 来て
僕も解釈してみよう
桃を食いながら新聞を読んでいる
そこに廃村の知らせが書いてある
ちょっとミスって手に持ってる桃の皮を落としてしまった
桃の皮が新聞のインクに触れた
桃は皮にも水分がある(?)、で水があるとにじむ、よってにじむ
廃村になってショックだなぁって思いながらも、その活字がにじんでいる
追い討ちをかけるかのようだ……
来ては誤字かな
投げたwsta.icon
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皆さんの考察を読んでみる
すごい
非常に知的なゲームだと感じた
いや連想力というか感受性?も求められるのかも
桃と生命力をつなげる発想はなかった
僕にとって桃は「ピンク色の果物」程度。なのでなんで桃なんだろう?は結局思いつかなかった 奥深いな
meganii.icon
(妄想)呑気にコタツの上で桃を食べているとくず入れに使っていた新聞紙に「廃村」の文字があった。やぁねぇ、大変だねぇーと、思っていた/話していたら、廃村を告げる通達をまさにいま郵便のお兄さんが持って<<来て>>、手紙を涙で濡らしている。
「活字」は、新聞紙と手紙(通達)のダブルミーニング?
桃はじぶんでもある?
桃を食べる日常から、空白をはさみ一転して、予期しない出来事が起こった
「廃村を告げる活字」が「来て」わたしがそれに触れたのでは
その手紙の活字も涙で滲んでいくような
じぶんの世界が滲んでいくような
活字が滲んで読めなくなるさまが、故郷の村がゆっくりと消えていく様を示している?
わすらるる村
「来た」ではなく「来て」で終わっており、まだ次に繋がりそうなので、「桃の皮ふれればにじみゆくばかり」に掛かって来るんじゃないか説
廃村を告げる活字が来て桃の皮(自分の手)がふれれば、その活字がどんどんにじんでいく、ますますにじんでいく
物理的ににじむんじゃなくて、めまいがしてみえなくなっている
久住哲.icon
実際に起きた出来事を詠っているのか、創作なのか
仮に実際の出来事だったとしても、そこに「来て」をぶつけるのすごい
リズムについて
廃村を/告げる活字に/桃の皮/ふれればにじみ/←ここで区切ると日本語として不自然なので、一気にふれればにじみゆくばかりと読むことで、リズム上来ての前に休符が来る。
第四句と第五句のあいだで句跨がりが起きているが、これがすごく効いている久住哲.icon 初めてこの歌を目にしたときの衝撃は忘れ難い。私はこれを相聞歌として読んだが、そのような読みを最終的に成立させているものは、最後に置かれた「来て」の二文字に過ぎない。 相聞歌以外の読みもあり得るという感じcFQ2f7LRuLYP.icon
でもここから何故相聞歌と思ったかを言葉を使って説明している
だが、この「来て」の強烈さはどうだ。初句から結句に至る言葉の連なりは自然で、新聞紙の上で桃を切り分けたとみえる日常描写の何処にも強引なところは無い。ところが一字空きのあとの、唐突とも思える呼び掛けによって、新聞紙や桃や濡れたナイフといった周囲の物たちの存在がふっと霞がかかったように遠くなり、ただ「来て」のひとことだけが、抗い難い磁力を帯びて読み手の心に迫る。
久住哲.iconさんの「「来て」が主役」を読み取る目cFQ2f7LRuLYP.icon
SUGOImeganii.icon
「廃村を告げる活字に桃の皮ふれればにじみゆくばかり」という静かな言葉の連なりが、読者の心の深部に響かせるものは何か。 ここから読み取れるメッセージを敢えて言語化すれば、それは「確かなものは何ひとつない」だと思う。 濡れたナイフ、果実、 丸まった皮、 滲む「廃村」の活字から、作者はおそろしい真実を感受してしまう。すなわち、過去や未来、人との絆、この世のすべてはただ一瞬の譬えに過ぎない。この震えるような把握は、瞬間的に幾つもの感覚を呼び起こす。(今しかない)(こわい)(何もいらない)(これだけ)。耳鳴りのような感覚の響き合いのなかで、眼前の、しかも遥かな一人に向けてたったひとつの言葉が選ばれる。「来て」と。 なるほど「来て」の一点から相聞歌ととったのかmeganii.icon
一首の解説には三十一文字をはるかに超える量の言葉がいるcFQ2f7LRuLYP.icon
読むということはおっかない行為だなあ
短歌は言葉の詰まった爆弾
歌人の評を読む前に、自分であれこれ考えるのは有効だと思ったcFQ2f7LRuLYP.icon
歌人の読みは鋭く、先に読めばそっち側にひかれてしまいそう
あらかじめ答えのある読解になるかも